今や一寸した猫ブームのようである。猫の駅員や猫の島など地域の猫を全国へ発信して猫好きを引き寄せ、猫が思いもかけない経済効果をもたらしている所がある。観光地であればそうそう何回も訪れることはないだろうが、猫好きであれば一回で終わることなく何回でも足を運ぶに違いない。また最近は猫の写真集もよく売れるようになったという話も耳にする。
私は寅年のせいかネコ科の動物が大好きである。まさか虎やライオンを飼うわけにもいかず、猫を飼っている。物心がついた時から、そばに猫がいて、猫を家族の一員としてずっと飼ってきた。今飼っている雌の虎猫は二〇〇〇年の九月生まれで、まさに世紀末の猫であり、世紀をまたいで生きていることになる。この猫が家へきてから三年位の間は大変であった。家の中の戸を開けるのは朝飯前。鴨居には登り付く、仏間や神棚にも入り込む、障子や襖は破くで家の中はメチャメチャになった。ある時、鴨居に上がったはいいが下りる際に脱臼してしまい、一週間くらいギブスをしていたことがある。そんなこんなで、私の大切なコレクションを傷つけられてはなるもんかと、コレクションルームには鍵を取り付け、私がいる時以外は施錠するようにしている。今でも柱、引き戸、壁、襖など家の中のあちこちに彼女の爪痕が残っている。客間以外の襖は張り替えるのも面倒くさいので剥がれたままに地の板が剥き出しになっている所もある。
これは娘が貰ってきたもので、娘に何という名前を付けるのか聞くと三つ程名前の候補を挙げたが、その中に「リリー」というのがあった。これが気に入って愛猫の名は「リリー」となった。映画「男はつらいよ」の主人公であるフーテンの寅さんのマドンナの一人に浅丘ルリ子扮する「リリー」がいて、うちの猫は雌の虎猫であることから、これがピッタリの名前ということになったのである。
今彼女は九歳である。猫の九歳は人間でいえば初老であり、かつてのように家中飛び回るようなことはなく、おとなしくしている。私がコレクションルールも椅子にすわり、前のテーブルに足を投げ出していると、このテーブルの上に上がって、私の足首に顎を乗せて目をつむってしまう。カピバラ(大型の鼠の一種)が風呂に入っているような表情である。この猫、兎のように尻尾が短い。本土の猫は尻尾がすらりと長いのが普通であり短い尻尾の猫は余り見かけないが、長崎界隈の猫は短い尻尾の猫が七割だという。東南アジアで飼われている猫は短い尻尾のものが多く、かってこれらの猫が長崎界隈へ持ち込まれたことで長崎の猫は尻尾が短いといわれている。うちの猫は抱かれたり触られたりするのが嫌らしく、抱いたり撫でたりすると直ぐに離れてしまうが、飼い主がそばにいないと不安なようで、常に家族の誰かのそばに寄り添うようにしている。
この猫を飼いはじめてから、骨董市などへ行くと猫グッズに目がいくようになった。最初に買ったのが、薩摩焼の眠り猫で、それから九谷焼の眠り猫と始めは眠り猫ばかりを集めていた。それも巾が二〇センチ前後の置物が中心であった。こんな眠り猫が五〜六体集まった頃であろうか、このままでは置き場所に困るような気がしてきて、ミニチュア猫を集めるようになった。集めだしてみるとミニチュアの猫の世界は大変奥が深いのである。種類は日本猫から西洋猫まで、模様も様々、大きさはまちまち、材質もそれぞれと猫好きにはたまらないアイテムである。骨董市へ行くと二回に一回位はミニチュア猫を手にして帰ってきて今かれこれ五十体以上の猫が集まっている。値段もウン百円からウン千円と殆ど遊びの世界で買ってきたものである。コレクションルールの中では、本来の蒐集品である掛時計、置時計、ランプなどとともに埃がかからないように、これらの猫達が仲良くガラスケースに納まっている。
猫コレクションの中でも矢も楯もたまらず買った猫がある。「お願い猫」というタイトルで販売された陶器製の猫で、高さも約三〇センチとコレクション中最も大きい猫である。虎模様で尻尾は短く、日本猫の体型をしている。目はまんまるく、瞳以外の部分は鮮やかな青色で、この目が何かを訴えかけるような憂いを帯び何ともいえなく愛くるしい表情を醸しだしている。両手は前の方で合掌し、何かを拝んでいる体をしている。一目見た瞬間この愛くるしい表情に参ってしまい、即その場で購入した。買い値は三千円であったが、その時は一万円でも二万円でも買ったにちがいない。とにかく衝動買いした物は飽きが来るものであるが、この猫に限ってはそういうことはなく、コレクションルームの私専用の椅子の脇において毎日顔をみている。飼い猫がそばにいる時と同じで癒される時が流れていくのである。これだけでは物たりないことから、骨董市へ行くたびに探し求めているが、現在この他に高さ一〇センチ程度の同型のお願い猫を三匹ゲットしているだけであり、探している物には中々めぐり会えない。
猫グッズといえば、昔から招き猫が定番であるが、これを集めだしたらきりがないようで、招き猫には手を出さない。骨董市へ行くと沢山の招き猫が並んでいるが、これを一々買っていては財布が風邪を引いてしまうだろうし、置き場所もなくなってしまうだろう。また招き猫はみんな同じポーズをとっており、この辺にもあまり魅力が感じられないということもある。そういえば、佐藤春夫の魔女という詩集の中に家出人人相書という詩がある。
三十歳の肉体を秘め
十七歳の情操を香はせ
柔和にして暴虐
能く暗中に化粧し 又
泣くこと巧みにして猫属なり
女の目には極めて不快
若き男の目にはまばゆし
うちの雌猫もこの詩の中の女性のように、飼い主の私にとってはまばゆい存在であり、それこそ抱きしめてほおずりしてやりたいのであるが、彼女は中々それを許してくれない。