今は昔の事(平安時代の頃)
ある、霧深い初夏の朝まだき、前橋の(当時は上野国蒼海郷)釈迦尊寺に、笠を目深にかぶった一人の老尼僧が尋ねてきたという。
「私は小野小町と申すものでございます。祖父、小野篁のつてを頼りはるばる都より出羽の国を目指して旅をしております。つきましては道中、目を悪くて難儀しております。暫く当寺にご厄介にはなれませんでしょうか?」というのである。
住職はあらためて、まじまじと其の老尼僧を見たという。
破れ衣に頭陀袋を肩に掛け、腰は曲がり、顔はしわだらけ、一本の杖にすがりやっと歩いている。
これがあの、美人の誉れ高い小野小町とは、深草の少将を九十九日も通わせ続けたというあの、小野小町の成れの果てとは、もののあわれに胸ふたがれた、住職は老尼を快く庫裏に迎え上げ、介抱したという。
数日後、やや回復した老尼は、「どこかこのあたりに、目に効く薬湯でもござらぬか?」と問うた。
「おお、そういえばこの先の、鏑川の、小野郷(現、富岡市)にお薬師様の湧き水があって、そこの水で目を洗うと卓効があるときいておりますじゃ。」
小町はそれを聞くと喜んで住職にいとまごいしてお薬師様の湧水へ向かって杖を頼りに旅立っていったという。
やっとたどり着くと、そこには、お薬師様の湧き水が岩間から滾々と清冽な清水を湧き出させていたという。
小野小町は其の傍らに、藁や木々を集めて粗末な草庵を設け、毎日水で目を洗ったという。
そうして暫く養生するうち目も癒えた小町は、
「南無薬師諸病悉徐の、願かけて、身こそ仏の名こそ惜しけれ」そう詠じると、いずこともなく立ち去っていったという。
その後其の庵は、里人らに守られて「小町山普通寺」として薬師の湧水とともに村人の信仰を集めて栄えたといいます。
一時衰えたこともあったようですが、江戸時代に入ると、御朱印地三十石を賜るなど栄えました。
そしていつの頃からでしょうか?
富岡市の得成寺に一体の小さな、木像が寺宝として伝えられて居たのでした。
しわだらけの老婆が破れ衣に身を包み、しなびきった乳房もあらわなそのすがた、一本の杖を頼りに上を見上げて放心したように立っている其の像、
見るだに、醜怪といわざるを得ない、其の、老婆の木像、
それが小野小町の老いさらばえた姿だというのだ。
得成寺に伝わるところの、伝、運慶作、「小野小町無我無心像」である。
「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」 小野小町
『古今集』
人の命の哀れさよ、絶世の美女も時が過ぎれば老い衰えて、男たちも誰も見向きもしなくなり、目を病み、流浪の果てに出羽へと、破れ衣で、落ちのびていったのであろうか?
「いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞきる」 小野小町
かってそう、情熱的に歌った恋愛歌人の姿はもうどこにもない。
人の世の無常と栄華のむなしさを思い知る遠い遠い昔の伝承譚である。