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「骨董 笑日幸美 大賞」2010年度集45号第1回作品


上州、平井城、落城哀史、乳母の忠節。
地島 博秋 
 群馬県藤岡市、ここに中世の関東の都といわれた名城があった。平井城である。ここは関東管領山内上杉氏の、本城であり、関東の都であったのである。最盛期には五万人とも、十万人とも言われる城下町が連なり商業も栄えて、諸国の商人や文人墨客の往来も絶えなかったといわれている。
 今は廃墟と化した平井城跡に立つと、一面に、草原が連なり、農家も点在する寒村であるばかり。十万人の大都会が在るったなんて夢のまた夢である。想像だにできない、うらさびた農村風景である。
 さてそんな栄華の平井城にも、新興勢力の小田原北条氏が刻一刻とせまっていた。川越夜戦で退廃した上杉氏はそれ以来、平井に蟄居状態、もはや没落の影はいかんともしがたい状況であった。
 天文二十年八月、北条氏康は平井城に攻撃を仕かけたのである。そのころ多くの上杉方の家臣たちは既に北条方に寝返っており、平井城に集まったのはわずかに兵五百人とも言われている。
 それを見た上杉憲正は、五十九人の兵とともに越後の長尾景虎を頼って夜陰に乗じて平井を後にしたのである。残された城兵は良く戦ったが多勢に無勢、勝てるわけもなくあえなく落城したのである。
 そして、城に残った妻子は、近くの民家に身を潜めたのである。長男の竜若丸は、家臣・目加田信介とともに、次男・鶴若丸は幼き身より乳母とともに、支城のある吉井町方面へ。しかし、家臣・目加田真介は、なんと竜若丸を北条方に引き渡して自分の助命を嘆願したのである。
 直ちに小田原に護送された竜若丸は斬首、そして主君を裏切った目加田は助命どころか、見せしめとして貼り付け市中引き回しの刑に処せられてしまったのである。
 さて乳母と逃げた次男・鶴若丸の運命は。乳母とともに西平井まで落ち延びたところで追っての兵が迫り、乳母と若君は小さな橋の下に身を潜めたという。しかし、あえなく見つかり、殺されてしまったという。乳母は最後まで若君を守ろうと奮戦したという。
 後世、この乳母を称えて、
「上杉城主幾興亡 平井の繁華夢一場 乳母の忠魂地蔵に留まり 
千秋万古 人をして傷ましむ」
と、顕彰されているほどである。
 同じ死とはいえ、家臣の裏切りによって差し出された長男・竜若丸。それに比べ、権謀術数渦巻く戦国時代とはいえ、主君に最後まで忠節を尽くしたけなげな乳母の思いが、鶴若丸の死をいっそう哀切きわまるものとしたのであろう。
 しかしこの乳母の名も伝わっていないのである。無名の乳母と高名な家臣・目加田真介の裏切り。戦国の世の、親子さえ裏切りあうという、下剋上に咲いたけなげな一輪の野の花のように、乳母の思いが今にまで語り伝えられているのは、人々の共感を呼ぶからなのであろう。
 今、西平井の道をたどると、路傍にひっそりと小さな祠が立っている。それが乳母神社である。乳母の遺徳を称えて立てられた分霊堂である。そこの記念碑にはこんな揮毫が掘り込まれている。
「若君と 共に野末に 散り果てし 乳母の御魂は 尊うとかりけり」
遠い遠い昔の戦国の世の落城哀史である。


無理強いで求めた印判皿
吉田 静司 
 定年退職までが残り数年となった秋、人事異動で岐阜県の工場へ配置転換になった。営業職から慣れない就業時間通りの規則正しい判で押したような日々の変化のない音のしない生活になった。本社から離れ地方住まいとなり、心なしか敗北感を味わう気持ちになり、この先どうなるのかな?と焦燥に駆られる気持ちになった。自分の心とは裏腹に古びた街は静かすぎた。
 近隣の多治見市、土岐市の町で秋の祭日や連休に焼物の即売会の催しの案内が新聞折り込みに入り、知り合いもなくこれと言った趣味も持たなかったので、焼物祭りへ行ってみた。窯元直売のため市価より安く藍色の濃淡で描かれた染付に何となく魅せられた。
 古い歴史ある街並みに住んでみて、落ち着いた街の色、流れる風の香りにも馴染み始め、古い佇まいの良さも少し理解出来る感じになってきた。染付磁器の変遷を辿り調べると、有田で江戸時代から試行錯誤するかたちで始まったと伝えられ、種類も何十とある事が判り、瀬戸や多治見もその流れにそって作られてきた歴史がある事が判った。
 何気なく使っていた器や皿が幕末か明治期位の染付の物に変えられたらちょっと贅沢かな? 食事時、器で粗末な料理でも楽しめるかなと思ったりもした。
 関東の同僚からの便りもなく、どこか置いてきぼりにあったような寂寥感が募った。
 古い染付の器の呉須の藍色に嫋やかな郷愁を感じ、多く余白を残し描かれた草花はもの寂しげに見え、休日には古道具店や民芸店巡りで過ごす事が多くなった。自分を重ねみて忘れ去られた古い染付の器を探すような心持ちにいつの間にかなっていた。子供の頃、切手等の蒐集した楽しさが甦ってきた。
 地方新聞に近隣地区の「小さな旅」特集が地図案内付で載り、それをとっておいて初冬の頃、越前大野まで車で行った。地図通り行き、人の居ない武家屋敷の見学を終え、駐車場へ向かう途中にセトモノ屋があったので声をかけ店に入り見せてもらった。古い店舗でどこにでもある普通の店だったが、奥行きの深い店で奥の棚の上に麻紐で十客ずつ十字形に結わえた色絵皿や染付の皿が大小いくつも埃をかぶり並べてあり非売品と書いてある。
 店の主人に尋ねると「これは先代からの店の歴史ですよって、売り物ではおへん」とあっさり言われた。店の奥から狭い通路伝いに庭に出る先に元銀行として使われていたという立派な建物があり、店の格式が判断出来た。今は倉庫として使っているとの事だった。
 関東の言葉で色々尋ねると、主人は私が怒っている風に聞こえたのか不機嫌な顔で煩いなあという感じに思われた。
 主人の妻女らしい人がお茶を淹れてくれ、愛想良く世間話をした中で、娘さんが東京の大学で学んでいるとの事、最近の東京の話を聞かせてほしいと頼まれた。私は転勤前の頃の新たに建設される高層ビルの事や下町の景気の変な風な片寄り、銀座に外国からのブランド店出店の事等、せまい見方なので正確ではないが見知ったりもした事をかいつまんで話した。娘さんからは余り便りもないようだった。
 どの地方でも新しく出来た道筋に郊外型の大手スーパーや全国展開の洋服屋、コンビニ、百円ショップが押し寄せている。きっと当地もその様な状況なのだろう。妻女らしい人は商売の事や人通りの少なくなった街を心配している様子だった。シャッターを下ろしたままの店も数多くある。
 もう一度棚の上の皿の事を尋ね分けてもらえるか聞くと「あんたはんは、字読めへんのか!」と声高に言われた。店主は売れば店の歴史が崩れてしまうと思ったのだろう。嫌な顔をしていた。妻女らしい人が「あんた、売れる時に売ったほうがええよ」というような事を他の品物の事と折り混ぜて話していた。暫くして「五枚なら分けてもええよ」と言ってくれた。主人は妻女らしい人に言われ渋々承諾してくれた。「やったあ」と心の中で思った。
 一枚は小さく欠けがあった。菱型の印判皿だ。これは歴史の勉強だと思い、店主にお礼を述べ無理強いした事を詫びた。袋の中の古新聞紙に包まれた皿を上から撫でながら帰途についた。
 普通の店で明治期前後に作られただろうと思われる品物があるとは思わなかったし、紙摺り印判の品がある事に驚き、店の歴史を想った。私にとっては幸運な店と店主夫妻に出会えた事に喜びに浸れ、日頃鬱積したもやもや感から忘れる事が出来、充実した気分になれた。
 古美術の著名な店やネット販売が全てではない事に感慨を深め、この様な地方の店をいつまでも町が又地域が存続する事を願うばかりだ。無理を申し込んだ自分の大人気ない振舞に深く反省もした。
 鄙びた山間の店の庭にある大きな柿の木の実が沢山色づいていた事が強く印象に残っている。
 我儘を聞いてくれた夫婦とはもう会う事はないだろうと思い、数年してから何とか定年退職して今は関東で生活している旨、お礼とお詫びの手紙を出した。
 初冬の大野城から見た紅葉の美しい風景を想いおこし、印判皿を手にして明治の頃の微風をどことなく感じながら一期一会の大切さを今かみしめている。


一期一会(その6)
松沢 善裕 
 江戸時代の初めに、福岡藩に出仕した宮崎安貞という武士がいる。三十歳で辞職した後は、農村の殖産振興につとめる一方、諸国を巡遊し農業技術の習得に努め、日本最初の農業技術書である『農業全書』を刊行した。徳川光圀が絶賛し、徳川吉宗も傍らに置いて愛読したと言われているが、初版本を福岡市周船寺公民館で拝見する機会を得た時には、思わず息をのんでしまった。(重要文化財の指定を受けており、現在は福岡市図書館に委託・保管されている)。
 この時の感動が忘れられず、公民館では手にとることもかなわかったので、『農業全書』を原本で手に持って読んでみたくて、知り合いの買い出し屋さんに「見かけたら、一冊でもいいから買ってきて」と頼んでおいた。
 しばらくして連絡があったので店を訪ねたところ、「あんたの探していた本だと思うけど、農家にあったよ。よく分からなかったから、買っては来なかったけど」とその場所を詳しく教えてくれた。
 数日後、教えてもらった家に、菓子折りを持って行ってみた。ご主人がおられたので、「あのー、こんな本をさがしているんですが」と言うと、「ああ、それだったら、あの小屋にある本じゃないかな。自分でさがしてみて」と言われ探しに行った。
 解体する予定だという小屋をのぞくと、奥の方に傾いた本棚が見える。抜けそうな床をおそるおそる踏んで近づくと、棚には古い農業関係の本が和本も混じって並んでいる。一冊ずつ確かめていくと、「あった、『農業全書』だ!」。江戸後期に印刷された小型版であり少し痛んではいたが、3冊ひっそりと並んでいた。
 「やった!」と手に取り、急いで小屋を出ようとしたとたん、床を踏み抜いてしまった。「いたっ!」。靴を脱いで足裏を見ると、靴底を突き抜けたクギが刺さって出血している。「しまった!」と思ったが、かくなる上は是が非でも本を入手したい。足の痛みをがまんしながら、家のご主人のもとへ行った。
 「この本がありましたので、分けていただきたいのですが…」。「ああ、どうせ捨てるつもりだったから、欲しいなら持っていっていいよ」。
 念願の本が手に入った喜びと、クギを踏み抜いた痛みで、泣き笑いをしながら家路を辿った一日だった。


どこにでもある「親父の掛け軸」の話 
浅川 廣吉 
 親父は数十年前に他界したが、生前中大変大事にしていた掛け軸が一本あった。この掛け軸は普通の掛け軸よりは短く、画は正方形に近い横長のものであった。今となっては記憶に乏しいが、確か南天か何かの枝に一羽の小鳥が止まっている画であった。和紙に描かれており、もちろん作家のサインもあり落款も押してある。表具も古く決して良い表具といえるものではなかったが、それがまた本物である様相を呈していた。私としては相当な品物なんだろうと思い込んでいた。
 この頃、よく本家の当主が遊びに来て酒を酌み交わしたものである。ある日のこと。本家の当主にこの掛け軸の話をすると、その掛け軸は本家が親父に呉れた物であり、有名な作家の掛け軸であるとの由。この時、作家の名前を聞いたが、今はもう記憶にない。この話を聞いて益々、この掛け軸は我が家のお宝に間違いがないと思うようになった。当時はまだ「開運! なんでも鑑定団」などのテレビ番組はなく、印刷物であるか否かを天眼鏡で確認する方法があることなど全く知らずに、ただただ本物であると信じ込んでいた。
 その後時は流れ、やがて「開運! なんでも鑑定団」がテレビに登場することになる。掛け軸の鑑定では、よく鑑定士が天眼鏡で鑑定品を見る場面があり、説明の際に、「これは点の集まりでありますので印刷です」などという言葉が発せられ、会場は爆笑となり、出品者は真っ青になる。そこで私も鑑定士を気取って天眼鏡で親父の掛け軸を拝見した。するとどうだろう。紛れもなくそれは点の集合体であり、印刷物に他ならなかった。その時、なんでも鑑定団に出品される掛け軸は殆どが偽物で、ひどい時は印刷物であったことから、それほどがっかりすることもなく、やっぱり我が家の掛け軸もそうであったか、という感であった。
 こんな印刷物の掛け軸を持っていてもしょうがないので、骨董好きの知人に印刷物であることを承知の上で無料で進呈した。彼はそれを表具し直して客間の壁に掛けていたが、その後とんとご無沙汰であの掛け軸がどうなったか分からない。
 こんな事は、なんでも鑑定団における掛け軸の分野のように、どこにでも転がっている話であるが、我が家の掛け軸も例外ではなかった。あの掛け軸がどういったルートで本家へ到来したのかは分からないが、本家の当主はそれなりの目利きであったんだと思う。たまたま天眼鏡で鑑別する方法を知らなかっただけのことであろう。
 「なんでも鑑定団」を見ていると、掛け軸の世界は殆どが偽物、ひどい時は印刷である。テレビ出演した偽物たちはその後どうなるのだろうか。その偽物たちが巷に流出した場合、本物と信じ込んでそれを手に入れた人やそれを引き継いだ人はいつかはガッカリすることになることは必定である。これは偽物がこの世に存在する限り、延々と続くことだろう。
 今から思えばあの時、知人などにやらずに破いて燃やしてしまうべきだったと後悔している。仮初めにも私は、偽物の絵を世の中に送りだしてしまったのである。肉筆であれば、それが本物として流通する時、本物の可能性は1%から100%まであり、可能性がゼロということはない。このパーセンテージは持ち主の思い込みや眼力はたまた購入時の価格などによって様々であろうが、とにかくゼロではない。そこで「なんでも鑑定団」では悲喜こもごものドラマが生まれるのである。ところが印刷となれば話は別である。印刷が本物として流通する場合は正真正銘の偽物に他ならない。偽物という折り紙付きの親父の掛け軸が知人の手元を離れて巷に流れ出、目の効かないコレクターがそれを印刷と知らず本物と信じて手に入れ、やがてはガッカリしたり場合によっては不利益を被ったような場合、その責任の一端は私にあることになる。私のとった行動は誠に軽率であり、今になって後味の悪い思いが残る。
 こういった私の考えは自ら身銭を切って買ったものでなく、親父が本家から貰った物であり、元がタダだったからかも知れない。今では本家も代替わりし、親父の掛け軸の話などすることもなく行き来している。今更知人にあの掛け軸を返してくれとも言えず、今は親父の掛け軸がこの世に存在しないことをただただ願うのみである。もし読者の中で偽物を掴まされた時、偽物を持っている方があれば意を決して即刻破り捨てることをお勧めしたい。
 その前に、自分が持っている掛け軸が印刷物かどうか、先ず天眼鏡で確認してみてはどうか。



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