八年ほど前の事です。千葉県から岐阜県美濃市へ転勤になった。暑い盛に引っ越しの準備をして九月末に引越した。住居は四階建てのアパートの三階の角部屋だった。
アパートの前にある古い和風の大家さんの家に挨拶に行くと二匹の犬に激しく吠えられた。
三階のベランダから見る風景は遠くに高い山々、その前に細長く古い街並みの屋根、そして広々と広がる田んぼと秋の大空が見える。
数日して部屋の片付けが終わる頃、休みの日の夕方年配の大家さんが三匹の犬に引っ張られるように散歩している所で会った。その時は人懐っこく尾を振り吠えなかった。
晩秋の頃、長い庇のある蔵の入り口に繋がれた犬を休みの日に娘とよく見に行った。尻尾を振り寄ってきて撫でると手や顔をなめられた。余り構ってもらえないのか二匹ともよく懐いた。千葉に住んでいる頃、柴犬を飼っていたので扱いには馴れていた。犬が亡くなった時、妻はペットロス状態でしばらくの間気持ちが沈みがちな日が続いた事もあった。
春になり、老齢の大家さんの体調が悪い時、頼まれて休日には二匹の犬の散歩を引き受けて、どの方向へ行っても続く田んぼの農道を気を紛らわせるように連れて散歩した。
転勤で仕事も変わり、慣れない環境と馴染まない人の間でこれから先のことを考えると、暗澹とした気分になった。休みの日の犬の散歩は気分転換と心の癒しにもなった。
休日に同年配の人達が、朝早く揃ってゴルフウェアを着てバックを持ち、一緒に行く車を待っている所でよく出くわした。そんな時、自分が友もなく連れているのが犬ということが何か淋しかった。
田植えが始まる頃、犬の首輪から鎖が外れ三階の人の姿を見ると、玄関先まで駆け上ってくる事もあった。大家さんは「アパートにはたくさんの人が居るのに犬が懐いたのはあたな達だけですよ」と言っていた。
犬小屋の前に小鉢のような器が二つあり、鎖で引っ掛け転がっていることもあった。日射しの強くなった日に器が転げ水がこぼれ、二匹の犬が舌を長く出しあえぐように見えた。外水道の所で器を洗い水をやると、尾を振り飲んでいた。
小さな鉢をよく洗い、見るととても古いもののように見えた。数日して図書館へ行くついでに陶磁器の写真本を借りてきた。本を何となく見ていると、犬の水飲み皿とよく似ている器が載っていた。急いで帰り、犬小屋の所へ行き、転がっている皿をみると同じような紋様の小鉢で、本の中でナマス皿と記された器に見えた。もう一度よく洗い、大家さんを訪ねて聞くと「少し欠けているので犬の皿にしました」との事。そして「物置きにも残りが二つ三つありますよ」と言うので見せてもらった。ほとんど欠けやヒビが入っていたが、写真本にあったナマス皿だ。思わず「このヒビの入ったのを一つ貰えないですか?」と厚かましく訊ねると「もっと良いのがありますヨ」と言って蔵の中へ入って行き、しばらくして古い煤けた木箱から二十客くらい入っていて、虫喰いあとの和紙に包まれた皿を二枚出して「これの方がいいですよ」と言い手渡してくれた。「犬の散歩のお礼ですよ」と言う。「いいんですか、大切な物を?」と言うと「こんな古い物はもう使う事が無くなったねぇ」と言っていた。お礼を述べ、頂いた。「良かったね!」とでも言うように物言わぬ犬が尾を振り目を輝かせていた。
地方の田舎のどこにでもある田んぼの風景の中で、二匹の犬を連れ歩くと、転勤で移り住んだ人間には思えないくらい、この土地の者になったような気がした。故郷の無い都会育ちの自分が、故郷に帰ってきた気持ちにいつの間にかなっていた。余所から越してきた自分に、風景も人も犬も何となく優しく温かく感じられた。
貰った皿をよく調べると、外側はうすい青磁色をしていて内側は白地に染付で山水らしきものが描かれている。少し厚めの皿だった。
岐阜県は海無し県だ。恐らく遠い肥前地方から長良川を遡って、昔運ばれてきたのだろう。
当地は美濃和紙の産地だ。そんな時代の移ろいを想わずにはいられない。
自分より遙か長い時を経てきただろうと思われる器は何となく懐かしく、いつか美濃の地が自分の故郷になるのでは?というような気がしてきた。器と同じように、漂着した所に長く留まれば第二の心の故郷になるのだろうと思えた。古い街並みも今の自分には合っている。人も少なく時代に置き去りにされたような佇まいだ。そして二匹の黒柴犬が「散歩に行こう」と言うように尾を振りながら「ワン」と吠えた。
貰った青磁ナマス皿は小さな本棚に皿立てで飾ると見映えがする。裏底には窯印の福の字の田が渦巻きの様に描かれている。
作られた頃の時代は規律の厳しかっただろうと思われ、無名の絵師や職人は、小さな脇で使う器でも丁寧に手を抜かなかった事がよく判る。美をより美しく表そうとする心意気は、製作技術が進んだ現在より絵心の発想が優れたようにも思える。その時代に厳しく慎ましく生きた人達の息吹を想い、長い時を刻んできた時代の風格さえ感じられる。自分より長い歳月に耐えて残っている器は、歴史が残るように意味づけられているのかも知れない。
それゆえ、小さな物でも大切にしたいと思う。己を顧みる大切な時間まで貰ったような気持ちになっていた。そして外で犬が「散歩の時間だよ」と言うように鳴いていた事を思い出す。
本棚のナマス皿を見ると美濃の懐かしい思い出が犬の姿と共に甦ってくる。 |