幕末から明治にかけて活躍した、有名な刀鍛冶の会津和泉守兼定(会津兼定十一代)は、新選組副長の土方歳三の大活躍による名声により、土方歳三の愛刀の刀鍛冶として、刀剣愛好家のみならず、一般の方にもよく知られている刀鍛冶の一人です。
その会津和泉守兼定の弟子、越後与板藩井伊家に仕える松永龍眠斎兼行は、廃刀令後の明治十年に、現在の群馬県富岡市七日市に、新天地を求め移住しました。
同地に於いて、七日市藩(前田家)の総鎮守であった蛇宮神社の宮司、その後富岡の諏訪神社の宮司を務めると共に、刀鍛冶、刃物鍛冶を継続して門人を二人育てます。
一人は、長男松永兼重、そしてもう一人が龍眠斎兼友でした。
松永龍眠斎兼行は、龍眠斎兼友という後継者を得て、安心したかの様に、大正二年六月三日、行年六十九歳で亡くなりました。
その松永龍眠斎兼行より伝統ある鍛刀術を受け継いだ龍眠斎兼友の刀鍛冶の名声を伝えるものとして、現天皇の御誕生記念刀を製作、その打初式を伝える、地元の上毛新聞、昭和八年十二月二十四日付で、写真付の掲載記事となっています。
一方、刃物鍛冶としての名声を得たのが、切れ味と、使い良さにより、名品の名を欲しいままにし、養蚕の盛んな地元富岡はもとより、信州佐久地方よりの注文が多かったといわれている、継ぎ木用の小刀があります。
この小刀は、「継ぎ穂」と呼ばれ、桑の継ぎ木の為に使用され、大正から昭和初期にかけて、多く製作された様です。
価格としては、一般の鍛冶屋の三倍から五倍位であったが、その実力と人気で注文に製作が追いつかない状況であったといいます。
その材料となる鋼は、当時の鍛冶屋では使いこなすことが困難であった東郷二号鋼が使用されていました。
兼友は、刀鍛冶としては、「龍眠斎兼友」と銘を切り、刃物鍛冶のときは、「藤原兼友」と銘を切りますが、写真の「継ぎ穂」は、柄の部分には、刃物鍛冶の屋号である「カネマルマタ」の焼き印が、刃部には「藤原兼友」の銘を切っていますが、通常は楷書で銘を切りますが、草書銘となっているこの「継ぎ穂」は、唯一残っている大変珍しい物だと思いますので、この大珍品を次世代に残して伝えたいと思います。