◇アンティークウォッチ(あんてぃーくうぉっち) |
アンティークウォッチの人気の秘密は、なんといっても、まず使えるという事。つまり実用骨董の魅力なのです。さらには機械のおもしろさや各メーカーによる設計の違いのおもしろさ、そして文字板とケースを含めたデザインの多様さなど、追及しはじめたら、きりがない世界です。実用できる主な売れ筋は懐中時計で1850〜1930年頃、腕時計で1930〜1960年頃がよい。 |
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◇伊賀焼(いがやき) |
伊賀は、信楽と同系の土で焼かれる。桃山期、筒井定次によって、お庭焼として始まったのが筒井伊賀。藤堂虎時代の藤堂伊賀、小堀遠州指導の遠州伊賀などがある。茶人指導のやきものであるため、使用目的よりも美術、芸術の面を優先させた部分があり、信楽より芸術的な点が多くみられる。お庭焼とは堀内、邸内に窯を築き、茶器などを焼いたものである。 |
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◇伊万里焼(いまりやき) |
伊万里焼とは、伊万里港から積み出された磁器の総称であり、有田焼を主としている。 陶業開始は、地元・佐賀に残る記録によると、1616年とされている。 17世紀初頭に作られた伊万里焼を初期伊万里といい、骨董的価値も高い。その特徴は、素地が厚く、高台が皿の直径の三分の一となっており、"三分の一高台”と呼ばれている。また呉須も当時は大変貴重であったためか、染付の面積が小さく、比較的色もうすい。 17世紀中期になると、陶製技術が向上し、素地も薄く、文様も洗練されたものとなってゆく。 さらにこの頃になると、中国の政治状況が混乱し、高価な中国磁器を入手が極めて困難となった。貿易をしていたオランダ東インド会社は、中国磁器の変わりとして伊万里焼に目をつけ、有田皿山とオランダ商館の間で、輸出契約が結ばれた。これを機に、伊万里焼は世界でも注目をあびることとなった。 |
皿の模様は、藍の染付中心だった伊万里焼だが、金彩などつかった豪壮な意匠で金襴手・錦手と呼ばれるものが生産されるようになった。 伊万里焼は大名や公家、豪商、豪農といった特権階級中心の需要を満たしてきたが、19世紀になると、窯の改良や生産体制の分業化等、コストダウンをはかり、次第に庶民の手にも入るようになってきた。その頃の伊万里焼は、庶民の需要のせいか個性的で面白い絵柄が多く、丈夫で使い勝手が良い。今日でも食器として人気が高い。 |
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◇印籠(いんろう) |
印籠は腰に下げる小型の薬入れであるが印鑑を入れたという説もあるらしい。印籠の価値を決めるのは蒔絵の柄・金の種類や・印籠についている細工物(根付・蜻蛉玉)の価値も大きく左右すると言われている、高価な品物になると黄金色のとても豪華な品物などは何十万〜何百万円もするといわれている。 |
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◇浮世絵(うきよえ) |
江戸時代、日本から海外に品物を送る際の包装紙に浮世絵が使われていた。当時、浮世絵は包装紙程度の認識しかされていなかったことを立証している。また浮世絵は摺りはじめから二百枚位までを初摺、その後を後摺という。初摺と後摺では二倍、ものによっては十倍程度の値段の開きがある。 |
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◇大皿(おおざら) |
一般的な皿には山水が多く、これは値段もあまり伸びない。犬の図などは武士の慶称が犬侍であることを意識してか少なく、洋犬は特に少ない。兎の図も珍しいとされている。 |
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◇大津絵(おおつえ) |
大津絵は、京都東本願寺建立の際に立ち退きをした絵師たちによって、大津の追分、大谷の地で産業として始まる。元禄頃はじめて文献に登場。現代も受け継がれている。初期は仏画から始まり、漫画的な風刺画として確立される。初期の作品は貴重で、200万〜300万の値がつくものもある。 |
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